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【欅坂46】「月曜日の朝、スカートを切られた」からみる少女の諦観

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この曲は「少女の、社会に屈服せずに立ち向かっていくという強い意志が生まれる前の出来事」が描かれている。

 

 

この曲の大きな流れとしては、

学校や教師に対する疑念の眼差しがスカートを切られたことを引き金に社会に向けられていくという小さな枠組みから大きな枠組みに向かっていく意識の変化が描かれている。

 

ここで「月曜日の朝、スカートを切られた」の基本情報をおさらいしておく。この曲は公式ブログによるとサイレントマジョリティー以前の少女たちを描いており大人の支配からの離脱、そして自由を求めるという意識が芽生える以前のことを歌詞に反映している。

少女たちが世の中に違和感を覚え、行動に移す要因は何であったのかということが『月曜日の朝、スカートを切られた』では語られている。

 

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では、歌詞をみていく。

 

どうして学校へ行かなきゃいけないんだ
真実を教えないならネットで知るからいい

友達を作りなさいスポーツをやりなさい
作り笑いの教師が見せかけの愛を謳う

 

不信感を表した言葉が散りばめられているが、まだここでは学校という小さな枠組みの中での不満、つまり「反抗期」であることが表されている。

 

反抗したいほど
熱いものもなく
受け入れてしまうほど
従順でもなく
あと何年だろう
ここから出るには…
大人になるため
嘘に慣れろ!

 

学校という小さな枠組みを出ても、その延長線上でしかない社会が待っている。その何の期待感もない「将来」を諦めているかのようである。「嘘に慣れろ!」とは社会に出るためには嘘に慣れる必要があることを強調している。そして期待のできない社会だけれどもなんとか順応しようとする意思が感じられる。

 

月曜日の朝、スカートを切られた
通学電車の誰かにやられたんだろう
どこかの暗闇でストレス溜め込んで
憂さ晴らしか
私は悲鳴なんか上げない

 

ここでやっと衝撃的なタイトルが回収される。

ここでのスカートとは「子どもの象徴」、この曲でいう「スカート」とは女子高生の制服でまさしく子どもの間しか着れない服である。

そして、それを切られたというのはどういうことだろうか?

それは「悲鳴をあげない」ことでこの状況を妥協した結果、少しずつ大人に変化してしまっている、毛嫌いしていたはずの大人に近づいていくということを表しているのだ。

 

「私は悲鳴なんか上げない」は「なんか」から読み取れるように悲鳴に対して何の価値も置いていなく、こんな憂さ晴らしでスカートを切ってくるような大人がいるストレス社会に屈服せずに立ち向かっていってやろうという、ある種の「諦め」、そしてその上での強い意志が込められた自発的な行動を表しているのだ。

 

この歌の主人公は「悲鳴をあげない」ことで諦めによる達観の域に達し本当は嫌いな大人になっていく人生を歩む決心をするわけだが、結局、この少女はその運命に抗う。

妥協していたかのようにみえたが心の底ではスカートを切られたことが引き金となり、これまでは学校の教師に対しての疑念の眼差しであったがそれが社会へと向けられていたのだ。

 

それが「サイレントマジョリティ」や「不協和音」で描かれていくわけだ。

 

このままスカートを切られて、嘘に慣れた大人になることに「僕は嫌だ」と声をあげることで、少女は立ち上がり、明確なる意志を示すようになるのである。そして、少女はサイレントマジョリティー(静かなる多数派)を脱して、自分の信念を貫くように生きていく。

 

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これらを踏まえると、「スカートを切られた」というセンセーショナルな言葉を使ったのはあえてなのかもしれない。そして、批判されることも織り込み済みだったのかもしれない。何故なら、この曲は欅坂46という物語の序章であり一部であり、その一部しかみずに批判してくる人達もこの主人公が嫌っている「大人」であるからだ。

 

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